【山 名】大平山(四国百山「四国新聞協会編」) 【実施日】2011年4月2日(土) 【集 合】佐古JA8:00 【行 程】佐古8:00─8:15藍住─8:30板野IC─9:30高松檀紙IC─10:00五色台スカイライン(足尾大明神近辺に駐車)─(山中)─15:00根香寺(牛鬼)─16:30徳島 【コースタイム】 足尾大明神10:00──10:15大平山──11:00国分尼寺跡──11:30山下うどん12:00──12:10国分寺12:30─(白い崖)─13:00石鎚休憩所──13:30一本松──14:00十九丁──14:30足尾大明神 【みどころ】 ●五色台 香川県坂出市、高松市にまたがる五色台は北から順に紅峰・黄峰・黒峰・青峰・白峰の五峰からなり、東の屋島と相対して瀬戸内海に張り出す広大な緑の溶岩台地で、300メートルから400メートル級の峰が連なっている。最高峰は猪尻山の483メートルであるが三角点が無く立入禁止となっており、最高峰の三角点を持つのは標高478.7メートルの太平山である。香川県はこの五色台によって東西に二分され、広義ではここを境に以東を東讃、以西を西讃と言う。国民休暇村や四国霊場の白峰寺と根香寺があり、車道が整備されてこれらの山へは、登山の対象というより車でドライブに訪れる人がほとんどである。主なピークには無線中継塔が建ち、山の景観を損ねているが、昔からの遍路道に入ると多くの自然に触れながら歩くことができる。 ●大平山 四国百山の一つ最高点の大平山(479m)は、車道がすぐ横を通り頂上は判り難いが、四国電力の無線中継塔の横にある。車道から無線中継塔への進入路をつめると、左側に大平山三角点への登山口がある。林の中へ分け入って行くと、程なく薮に囲まれた大平山の山頂に着く。山頂には二等三角点があり、周辺は林と薮で見通しが利かない。 ●山下うどん ☆何杯でも食べられる魅惑の麺☆ 「山下うどん」は、女性でも大、常連客の中には大を4杯食べた人もいるという絶品の手打ち麺がウリ。だしは、薄味の中にもイリコの風味が生きたシンプルなだし。待ってました!の麺は、ツルっと口に入ったかと思うとかむほどにコシが出てくる。 ●讃岐国分尼寺跡(国指定史跡) 讃岐国分尼寺は、天平13年(741)に聖武天皇が諸国に国分二寺を造営するように命じたことによって建立された国営の寺院である。正式には法華滅罪之寺という。国分寺の北東約2キロメートルの位置にあり、東西180〜210メートル、南北180メートルの範囲が史跡指定されており、現在は、そのほぼ中心に法華寺がある。 その法華寺境内には、自然石の金堂の礎石と推定される石が残っているほか、指定地の南西部で寺域を区画施設と考えられる溝が確認されているが、伽藍配置をはじめとして寺院の詳細についてはいまだ明らかにされていない。 ●第80番 白牛山国分寺 仁王門を入ると右に七重塔跡があり、15個の礎石が残り、いまは石造の七重塔(鎌倉時代)が建っている。この前にある銅鐘(重文)は奈良時代の鋳造。大蛇の伝説や高松城の時鐘の伝説で知られた古鐘である。正面の本堂の前は金堂跡で33個の礎石がある。橋を渡ると創建当初の講堂跡に建てられた本堂がある。九間四面の入母屋造り、本瓦葺きで鎌倉中期の建築といわれ天正の兵火にも免れ、堂内にご本尊の千手観世音(重文)が奉安されている。 縁起によれば、天平13年(741)聖武天皇の勅願によって行基菩薩が開基しご本尊を刻まれた。後に弘法大師が留錫して尊像を補修され、霊場に定められた。ご本尊は一木造りの高さ5.2bの立像で、裳には牡丹の絵模様や円形の散らし模様が描かれ、お顔には髪や毛を墨で描き、唇には朱が施されている。大師堂は多宝塔形式で、堂内で休息もでき、千体地蔵が安置され、納経所にもなっている。 ●大蛇伝説 香川県の安原淵には大蛇が棲んでいて人々に恐れられていた。戸継八郎という人物がこの大蛇を退治することになり、千手観音に「一矢が千の矢になるように」と祈願した八郎が大蛇に向けて矢を射ると、大蛇は銅鍾をかぶり香西の沖で死に、銅鐘は引き揚げられ国分寺に納められた。 ●第82番 天台宗青峰山 千手院根香寺 弘仁年間(810〜824年)、弘法大師空海は当地を訪れ、5つの峰々に金剛界曼荼羅の五智如来を感得され、ここを密教相応の地として五智如来の色別によって、青峰・赤峰・黄峰・黒峰・白峰と名付けた。その青峰に花蔵院を創建し、五大明王を祀った。その後、天長9年(832年)、空海の姪の子にあたる智証大師円珍が市之瀬明神のお告げにより霊木をもって千手観音像を刻み千手院を創建した。 両大師が創建した2院を総称して、根香寺となった。一説には、千手観音を刻んだ木の根株が香気を放っていたことから、根が香る寺と寺名になったという。後白河法皇の勅願所となり寺領を賜っていたが、度重なる兵火で衰退し、高松松平初代藩主松平頼重公によって再興された。本尊木造千手観音立像(重文)は藤原時代初期のもの。秘仏で御開帳は33年に一度。前回御開帳は平成15年。 ●牛鬼(うしおに)伝説 今から400年以上前、当山(青峰山)に牛鬼という怪獣が住んでいて人畜を害していた。人々は大変困り、弓の名手山田蔵人高清に退治してもらうことになった。高清は毎日弓矢を持ち、山中を隈なく探したが見つからない。さすがの弓の名人も困り、当山本尊に、怪獣が現れるよう21日間の願をかけ、一心に祈った。やがて21日目の満願の日、崖下にピカッと光るものを見つけた。それは、大きな皿のような目の牛鬼だった。高清は、素早く矢のねらいを定めて射た。矢はまっしぐらに飛び命中したが牛鬼は怒り、高清めがけ飛びかかろうとした。そこで二の矢、三の矢と続けざまに射たところ、その三の矢が、牛鬼の口の中に刺さりギャーと悲鳴をあげた。あまりの悲鳴の大きさに驚く間に、牛鬼は姿を消してしまった。 高清は、血のあとをたどっていき、定が渕というところで死んでいるのを見つけた。高清は牛鬼の角を切り取り、人々からお礼にもらった米15俵をそえて当山に奉納し菩提をとむらったという。その角は今でも当山に残っている。また、いつの頃からか、牛鬼の絵姿は不思議にも魔よけの効能があるといわれるようになった。山田蔵人高清のお墓は、香川県塩江町に現存する。 ●十九丁 打もどり 五色台山上にあり、木漏れ日の中を歩く81番札所白峯寺から82番札所根香寺への遍路道は、江戸時代の風情を現代に伝える香川県では数少ない古道である。道中、白峯寺から根香寺までの距離を示す丁石が、当時のまま残されている。白峯寺の門前が五十丁(一丁は約109メートル)で、根香寺まで歩くにつれてその数がだんだんと減ってゆくように置かれている。その内、古田と呼ばれている四十丁と、大きな地蔵がある十九丁の二カ所に80番札所国分寺への道を示す道標が立っている。古田の道標は、国分寺から白峯寺への札所を順番通りに回る、いわゆる順打ちの道順を表している道標である。 一方、十九丁に建っている道標は、明治から大正時代にかけて四国遍路を280回近く巡礼したことで有名な中務茂兵衛(なかつかさもへえ)の道標で、「百三拾七度目の供養の為、明治二十七年九月」と刻まれている。正面上部には「十九丁 打もどり」とある。これは白峯寺から根香寺まで打った後(札所を参拝することを打つと言う)十九丁まで引き返して国分寺へと向かう逆打ちの道順を示している。 どうして打ち戻りという巡礼方法が採られるようになったのだろうか。それは、国分寺と五色台山上の途中に「遍路ころがし」と呼ばれる急峻(きゅうしゅん)な坂があるが、この坂を避けるため先に五色台山上にある白峯寺、根香寺を回り、その後国分寺への逆打ちの道順が出来たと言われている。十九丁にある地蔵の台座に1797年(寛政9年)の銘があることから、この頃から打ち戻りが行われるようになったと考えられる。 |