登歩渓流(1994.4〜1995.3)



登歩渓流<1994.4>
◆花疲れはすなわち花見疲れである。浮かれて飲んだ疲れもあるが、繊細な心のひだに染み込んだ物憂い気怠さをふつうそう呼ぶ◆西龍王山、二秀峰、若狭峰、川井峠、先日訪れた山々の斜面には、短い春の赤い命がまぎれもなく精彩を帯びていた。中には既に花を落とし来年に備える梢もあれば、いよいよ出番だと張り切る幹もぽつぽつ見られた。◆里山から次第に上がってゆく山上の春は、今日はどこまで到達しただろう。夏を迎える前にもう一度花疲れを感じてみたい。剣山でもいいし、それは三嶺によってもいい。◆四季の移ろいを雪月花に求めるよりほかない哀れな現代人にとって、五感を奮わせる桜花の輪舞が、もうじき終わりを告げようとしている。

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○卯月はサラリーマンが宿命を負う季節。畠山さん、佐藤(真)さん、それぞれ異動。
○田村さん、20日にいよいよヒマラヤへ出発。
○「剣山のクマザサを守る会」内に猪子さんがフォトクラブを設ける予定。
○同会の総会に参加したあすなろの面々が、翌日のテレビニュースにちらほら。
○県連常任の花だった川原さんが、93年度で退いた。貢献度が大きかっただけに、今の形を継承、発展できるかが心配されている。
○「ゆずりは」編集を清野嬢から尾野がバトンタッチ。更なる発展を目指します。おこがましくも新しくコラムを加えました。その名も「登歩渓流(とぼける)」です。歯に衣着せぬ批判どしどしまってます。よろしく。


登歩渓流<1994.5>
◆ミルク色の霧を体にまといながら、薄暗い林の中を進んでいると、突如点々と咲くピンク色の石楠花が目に入る。歩き始めの小言はのどの奥にしまい込まれ俄然陽気に変わる◆散々と振り仰ぐ青天の時よりも、どんよりと煙り小雨でも降っていた方が一層趣深い。十中八九、雨の山行もよいと心変わりするだろう。「・・・雨が降ったら濡れればいいさ」と雪山賛歌の4番の詞にもある。◆剣山の南斜面に遭難碑のケルンがある事を知る人は少ないが、彼の生命を奪ったのは疲労と五月の雨だった◆登山中の雨は正に両刀の剣と化す。梅雨の時期がまた巡ってきたが、雨を楽観するか悲観するかは、最後は人間が決定せざるを得ない。山は山でも「青山」に達するかどうかも、結局は歩くその人にかかっている。

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○田村さん無事帰国。パルチャモ山へ挑戦するも、5200mで惜しくも断念。同行の2人はマイナーピークへ堂々立つ。


登歩渓流<1994.6>
◆剣山山頂に、仮にこんな立て札があったとしたらどうだろう。「すべると谷底まで止まりません。まだ生きていたい方は、自ら進んで危険なクマザサ地帯へ入らないように」◆笑いとばすこともできようが、万にひとつ考えられないこともない。一日五千人近くが訪れる夏休みなど、むしろ事故が発生しない方が珍しいのでは◆先日、皮肉にも登山者が少ない名峰三嶺でササですべり遭難騒ぎを起こした人があった。三十メートルも落ちたにも拘らず幸い大事には至らなかったという◆ササの保護が本格化する剣山に木道が設けられた。転落はこれでまぬがれようし、多分裸地化も防げよう。三嶺の一件でにわかに思いついた立て札は無駄となり、青天の下で寝そべった中二の剣山ももうかなわぬ久遠の思い出となった。

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○県連会員の共同執筆により、山と渓谷社から「徳島県の山」が近く出版されます。眉山から剣山までメジャーピーク52座が取り上げられており、また周辺の景勝地なども「ワンポイントアドバイス」として紹介されています。既知の山も未知の山も、この1冊から始めてみませんか。


登歩渓流<1994.7>
◆猛暑ならぬ炎暑、神様仏様いったいどうなっているの。ついに”高松砂漠“の造語まで飛び出した。水が少ないと書いて「沙」、しかし少ないを通り越してお隣の水は底をついた◆本県でも昨年の長雨が思い出されるが、あの時「おてんと様」がどれほど恋しかったことか。「雨はもうイヤ」と誰もが思った◆すでに香川のある地方では、雨乞踊りが行われたという。科学万能の現代文明に、失われていた”未開の復権“が行われたのである◆四国三郎があるとはいえ、我々も笑えない。石堂山直下の御塔石横の踏石で、かつてのような儀式が甦るかもしれないのだ。明るく賑やかな阿波踊りならぬ、真剣で荘厳なあのセレモニーが。

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○ アメリカへ渡ってから3/4年がたつ石井さんからの便り。「国中の国立公園巡りのため、1日800キロの車の運転をしています。」
○帰国後の田村さん大忙し。ベテラン川原さんの後継ぎとして県連役員にばってきされ、早速東京の「全国自然保護集会」へ行って来ました。
○異常な暑さのため、山行状況もパットせず。暑い時もそれなりの山登りがあるはずです。例えば沢登り。「大剣谷」も大変涼しくて猛暑を感じさせませんでした。またどんどん行きましょう。
○その大剣谷へ挑戦した佐藤(美)さん。1カ月ぶりの山行で大はりきり。すべることなく無事到達。「だってちゅうちょしたり遅れたりしたら同行の2人は、待ってくれそうな気がしなかったから。緊張の連続で疲れたけど事故もせず非常に面白かった」と本人の弁。


登歩渓流<1994.8>
◆ツキノワグマがまた見つかった。その名も「ジロウ」。次郎笈のジロウだ。2、3歳というから若い。きっと両親も生存しているだろう◆耳にけんかをして負った傷があるというが、「ツルギ」と雌をめくってトラブルでも引き起こしたのかもしれない悲しいようなうれしい話である◆ところでクマの行動範囲は、広いもので180平方・に及ぶといわれるが、確かにこの2頭もあちこち歩き回っている。中でも平家平から勘場山、権田山が連なる稜線の南北は”庭”のように出入りが激しい◆今秋の山行は、決まった。おかげで楽しみも1つ増えた。紅葉狩りと岩倉峠、あるいは紅葉狩りと木頭三笠。そしていずれにせよ、危険のない範囲でクマに遭遇してみたい。


登歩渓流<1994.9>
◆街に”小さい秋”が見つけられる。マーケットではサンマが出始め、社員食堂でもマツタケ御飯が出る◆山沿いではそういえば、風にたゆたうコスモスやたわわに実る栗にお目にかかった。小島峠には、既に色付いた梢が三本あった◆次回の山行はどの頂を目指そうか。茫の穂が銀色に波打つ落合峠、落葉松の黄金色が美しい杖立峠、あるいはコメツツジの三嶺もいい◆プランがこんこんと湧いては尽きない。食欲の秋、読書の秋、山想う秋?いよいよ紅葉真っ盛り。「高みへの序曲」幕開きだ。


登歩渓流<1994.10>
・古来、日本人にとって山は神だった。少しでも天に近い高みの存在は、常に人の心に「見えない拠り所」を与え続けた・その神に近づくには、清潔な身体でなければならなかったし、時に重たい荷を負い、行場の危険を冒しながら進まざるを得なかった・今われわれは、だが、山を神だとは思っていない。健康回復の道場であり、緊張感を供う楽しい遊び場にしか過ぎない・山行後に「救われた気持ち」がしたなら、単に丈夫な精神が育っただけの話だろう。ピークハントでもいいし、動植物観察でもいい、健康以外にもう一つ「現代の山の依り所」を探ってみようではないか。


登歩渓流<1994.11>
◆「権田の夫婦ブナ」とこっそり名付けていた巨木が県民の目にふれてしまった。大事にしまっていた宝物が盗まれたようでガク然とした◆偶然出合った2年前の冬が思い出される。友人と2人だったが「寒いのによく来てくれたね」といって風雪よけの屏風になってくれた◆「木」で「無」いと書かれる「 」(ブナ)なのに、そして大伐採地の真ん中に、よく600年も生き長らえたものだ◆衆目を浴びたせいで辺境に立つ不動のブナは何を思っていよう。「いよいよこれまでか。もう少しでいいから放っておいてほしかった」と嘆きの声が聞こえてくるようだ。

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○ 今年も県連リレー縦走はあすなろが最多参加だったが大雨で中止。別府峡で紅葉狩りと相成った。


登歩渓流<1994.12>
◆人格があるように、山の個格、すなわち山格も存在するのだろうか。もし人のように千差万別なら、山も果たしてそうなのだろうか◆例えば山頂からパノラマを見て、どれだけの山座同定が可能なのだろう。全部それぞれに名前を付けてやることなど、いつ、どこでもでき得るのだろうか◆例えば柴犬でも皆、個性があって違うはずだが、全く区別するのに手摺ってしまう。個性があるゆえに名前があるのではないか◆そうである以上、山格も認めねばなるまい。はっきり区別してやりたい。例え低いドングリでも、玉のように光る”心”を見抜いてやりたいと思うのだ。本年は県外も含め、いよいよ見分けにくい低山巡りに汗をかくつもりでいる。


登歩渓流<1995.1>
◆「権田の夫婦ブナ」とこっそり名付けていた巨木が県民の目にふれてしまった。大事にしまっていた宝物が盗まれたようでガク然とした◆偶然出合った2年前の冬が思い出される。友人と2人だったが「寒いのによく来てくれたね」といって風雪よけの屏風になってくれた◆「木」で「無」いと書かれる「 」(ブナ)なのに、そして大伐採地の真ん中に、よく600年も生き長らえたものだ◆衆目を浴びたせいで辺境に立つ不動のブナは何を思っていよう。「いよいよこれまでか。もう少しでいいから放っておいてほしかった」と嘆きの声が聞こえてくるようだ。


登歩渓流<1995.2-3>
◆何気なく地図を見ていたら、阿南市新野町に「一升ヶ森」という山の名が記されていることに気がついた。標高はわずかに一七三・五メートル。まだ登ってない山だ。◆昔、橘湾が全滅するほどの大津波に見舞われた折、頂の一升分の土だけが被害に遭わなかったことに由来するといわれる◆何かしら、往古の語り草を身に付けた山というのは人をふり向かせる魅力があるが、「高山ほど貴い」と思う者には、あまり効き目はない。◆標高主義も困りものだが、低山一点張りもいただけない。山登りは陸上競技ではないのだから、種目に垣根は不要のはずだ。県内外、高い、低い問わず来年度もおちこちの山腹をまさぐろう。理由は一つ。「そこに山があるからさ」。

「阿波あすなろ山の会」
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