随筆−領域化された個人−

1999.3


 地球から外に出たことのある何人かの人が「神の意志を感じた」とか「存在を感じた」と地球に帰ってきて語ったらしい。私は、この話を大西靖の「剣山〜一の森 山行感想(1998.12.20)」を読んだ後思い出す。人間は現代生活を営むために個々の領域を限定し狭くせざるを得ない。しかし、人里離れた自然の中に一度踏みこめば意識の働きは別のものになると大西は云っている。先の宇宙飛行士の話と大西の云っていることとは規模は違うが同種のものである。また、柳田国男の「遠野物語」にも同様の匂いを嗅ぎとることができる。これらの話、体験談にある共通点は個人的な領域から別の領域に足を踏み入れるというところにある。宇宙飛行士たちは宇宙へと行った。大西靖は剣山〜一の森へと行った。柳田国男は山村に語り伝えられている話を取材することにより伝説的なる領域へと足を踏み入れたのだ。

 大西は、こう云う。草が殆ど絶え果てた荒涼とした冬の大地に「人に媚びない風景」を見たと。人為的、作為的などではない、何か確かなものを感じたのである。成程、宇宙と云うものも自然というものも人間に対しては無関心である。

 未知の領域から領域化された自分を見たとき、人間は圧倒的な開放感を味わい自由を見つけるのかもしれない。その瞬間、彼の足かせは落ち、手錠も猿ぐつわも目隠しも耳栓も全て外されるであろう。そして我々はみな、この瞬間を味わうことになるだろう。

「散り残る岸の山吹春ふかみ此ひと枝をあはれといはなむ」 源 実朝

  新開晋一郎(大西氏友人)

「阿波あすなろ山の会」
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