西赤石山

2000.11.3


 前日は2度も警報が出る大雨。登山道が整備され、登山口までのアクセスもよい西赤石山を選んだ。

 朝食30分を挟んで徳島から3時間。10:15日浦登山口発。石垣が見え始めると、接待館跡である。崩れかけた、凝った煉瓦塀があったが、案内にある煙突は見えなかった。近くにあった小谷職員集落では醸造所があり、年間100klもの酒や油も作っていたという。

 しばらく行くと、小学校跡と劇場跡が並んでいる。小学校では298名の生徒がおり、劇場では京から歌舞伎役者が来て、数千人の観客をうならせたというが、その割には狭く感じる。数千人も入ったのだろうか。"苔むした"どころか"草むして"いる石垣は、城こそなかったものの、往事を偲ばせるに充分な迫力で残っている。

 ダイヤモンド水はうまかった。対岸には石垣が続いている。精錬所があったところだ。

 たくさんの木橋と倒木や苔のない美しい沢。地質のせいで苔が付きにくいのだろうか。登山道が脇に付いており、沢登りには絶好のシチュエーションだ。来年の夏が楽しみである。ところが、堰堤が現れた。上部は子供の遊び場のような河原。しばらく石投げをして遊ぶ。

 またしばらく行くと、大雨の後だからだろうか。尾根が切れたところから流れ落ちる滝あり。尾根を水が流れているのだろうか。不思議!人工の構造物のようにも見える。後から他の登山者に聞くと、普段はやはり、流れてないそうである。先人が作った廃水の仕組みかもしれない。

 次に現れるのが、明治32年に513名の死者を出した山津波で、最も被害の大きかった木方部落跡。対岸にはびっしり住居が並んでいたという。説明の書かれた立て札が各所にあるので分かりやすい。

 大山積神社跡は、1694年の大火のあと、鉱山事務所(重任局、勘場)が移されたところ。その大火で死んだ132名を祭ってあるのが蘭塔場。明治25年に神社が移転するまでは、祭りは大にぎわいであったという。

 目出度町は雑貨屋、料亭などが櫛の歯状に並ぶ町であったが、大正5年春、一斉に山を下り、家屋が撤去され、杉が植林されたそうだ。一瞬にして町がなくなったわけで、ポンペイやアトランティス、インカ帝国を連想させる。

 ここからは所々に坑がある。昨日の大雨で落ちた紅葉が絨毯となっている。

 銅山越えからは尾根道であったが、ガスがかかって、ほとんど景色は望めなかった。頂上手前で少しガスが切れ、わずかに東赤石が望めたのみである。西赤石からの縦走路は途中にざれた岩山があり、手強そうである。

 帰りは花を見に来ている団体さんといっしょになった。その団体さんともダイヤモンド水の所で分かれ、駐車場に到着した。17:00であった。 内藤

「阿波あすなろ山の会」
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