天狗塚(1812m)

1997.2.10〜2.11


メンバ−:片岡、田村、中野、尾野

 重荷につぶされるようにして、フラフラになって進んでいる時、出発前の楽しみをよそに「なんで、山なんかへ来たんだろう」と、いつも思う。テレビでマラソンを見続けていればよかったし、美学でブレンドでも飲んでいる方がよっぽどましだとも思ってしまう。週刊誌で「しもネタ」でも吸収していた方がましか、とさえ思うこともしばしばだ。

 しかし、山は登ってこそ価値がある。低くても高くても、有名でも無名でも、春でも夏でも、登らないことには解らない、と僕は確信する。「苦しい」と忍ぶ過程は、いわば必要悪で、これに絶えようとしてはいけないのかもしれない。無関心を装うか、空元気をつけて潔く忘れるのが適当かとも思う。疲労を克服する点にだけ専心してはまるで「雪中行軍」になってしまい、無謀な精神一辺倒の山登りと化すのではないだろうか。

 「吉と出るか凶と出るか」山頂に託すのも面白いというものだろう。でなければ、初めから一から百まで整えられた百名山を一つも落とすことなく巡礼していけばいいのである。未知に道はないかもしれないが、「剣山の登山道も初めはなかった」と知れば、何ら気持ちに波風はおこらない。

 さて、先日の厳冬の天狗塚には先行者の足跡はなく、雪も深い所では腰まであった。思い出せば「しんどかった、後悔したりもした」だが「山頂の澄んだ空気はどうだ」「天狗塚のさっそうとしたいでたちはどうだ」。自然の威力に頭が下がる、とはまったくこのことだと思わされた。


 人間の心などすぐに手の平を返してしまうから、苦しさから来る山への悪口などみじんも忘れ、初めから素晴らしい風景が約束されていて「だから、頑張れた」などと勝手に思うようなふしがある。

 まあ、しかし山に許してもらうとして、Uターンしていたなら山頂の喜びは絶対につかめなかったことは間違いない。

 僕は、今これを書きながら「なぜ山へ登るのか」を導き出そうとしているのだが、なかなか結論が出てこなくて弱ってきた。少なくとも、猟師、きこり、小屋番などには山に対してはっきりした目的がある。悪くいえば、それは損得上の利益を求める行為といえるが、ハイカーには、まずそれがない。百名山信者には、それがあるにはあるが、普通はない。つまり(僕にとって)登山は世間でいう「無駄」な類の行動とはいえまいか。いや、きっとそう、そうであろう。「そんな時間があれば働け」とか「要する交通費でトマトでも買った方が体にいい」なんておっしゃる方もいるだろう。ごもっとも。山登りを、単に「体」の健康にいいとだけ考え、足と肺を鍛えていると決めている方の意見である。山登りには「心」を潤す要素があると、僕はつまりいいたいのだ。「心」という言葉があいまいなら「脳への強烈なノック」といいかえてもいい。

 山に小難しい哲学を持ち込み「山岳」を「山学」にするつもりはさらさらない。山には、胃袋を満たし血肉となる栄養はないけれど、無色無限の心を打ち震わす、偉大な見えない力を備えていると思うだけである。例えば、天狗塚は、それが山頂だったが、山により、中腹の林だったり、渓谷だったり、滝だったりもしよう。一輪のシャクナゲであることも考えられる。非日常の山へ行くのだから疲れるのは当たり前。晴天ばかりでもなかろう。それにつけても、山登りには「ある何かの価値」があると思う。やはり、結論は出そうにはないが「無駄こそ最高のぜいたく」とだけ一人信じて、とりあえず自分を慰めておこう。キャベツや大根のように、決して換金できぬものとして山登りを考えよう。

 そして健康の源は「体」だけでなく「心」にもあることを、最後にもう一度だけいいそえておきたい。 尾野

三嶺の地図
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